山手線を作った男ー日本一の環状線は誰が計画したのか?

歴史の授業で、日本が明治維新をしてから、日清戦争、日露戦争…と歴史を勉強して来た方も多いと思います。しかし、東京の方であっても山手線の歴史を知る人はほとんどいません。今回は、そんな知られざる歴史をご紹介したいと思います。
目次
山手線はドイツで生まれた
なぜ、山手線は環状線なのか?普段乗り慣れている人であっても、なかなか考えないことですね。
そりゃあ、東京、上野、池袋、新宿、渋谷、品川という巨大なターミナル駅だから、それを結んでいるだけだよ
と思うかも知れませんが、山手線が計画された120年前は、東京駅は無く(計画中の駅)、池袋、新宿、渋谷にはまだ路線が通っておらず、増して池袋は初期の計画にも登場してませんでした。
上野から日本鉄道、現在の東北本線が北に延び、官設鉄道として東海道線が新橋から延びていました。一方で、上野から新橋間は江戸時代から既に市街地で、蒸気機関車の噴煙の影響を考慮して、鉄道を引くことに躊躇していました。
1883年の鉄道路線図
(1897年の陸軍2万迅速図に重ね合わせて筆者作成)
しかし、貨物輸送の観点から、日本鉄道と官設鉄道を繋いだら都合良い。そこで、品川から渋谷、新宿を通り、赤羽に至る、海と反対のいわゆる『山の手』に迂回ルートを建設します。ここで、渋谷や新宿という、当時はあまり人は居ませんでしたが、途中駅として設置されます。
1885年の鉄道路線図
(1897年の陸軍2万迅速図に重ね合わせて筆者作成)
ヨーロッパに行くと、鉄道のターミナル駅が市街地の外にある都市が多いことに気づくと思います。パリでは、路線の方面ごとに6つのターミナル駅に分かれていて、その間を行き来するにはメトロを利用する必要があります。当時の東京も、上野と品川という市街地外にターミナルを置く、パリと似た構造をしてました。
1895年の鉄道路線図
(1897年の陸軍2万迅速図に重ね合わせて筆者作成)
しかしここで、あるドイツ人を招いたことで、日本の鉄道技術者はベルリン環状線に着目します。
山手線を計画した、謎の男フランツ・バルツァー
今でも当時でもそうなのですが、ロンドンやパリのターミナル駅は終着点で、ターミナルを通過する鉄道は存在しません。ところが、ベルリンは違いました。
環状線が走り、真ん中にも別の路線が走っている。これに目をつけた日本の技術者は、ベルリンを参考にして東京の都市交通を計画すべきと提案し、実際にベルリン鉄道の建設に携わっていた、フランツ・バルツァーが技術顧問として招かれます。
100年前から環状線と真ん中を貫く路線は変わってない
(引用元:ベルリンSバーン公式 https://sbahn.berlin/en/route-map/)
実際のところ、日本の技術者は環状線が有用だと考えていたのだと思われます。しかし、最終的に計画としてまとめあげ、今の形になったのはフランツ・バルツァーの計画図でした。上野ー新橋をベルリンと同じレンガ式の高架橋で結ぶことで市街地への影響を最小化し、目白ー上野の新線を建設して、上野ー品川ー新宿ー目白ー上野の環状線とし、東京の中心のなるターミナル駅として新駅・東京駅を設け、当時繋がってなかった甲武鉄道(現在の中央線)と総武鉄道(現在の総武線)を接続し、上野ー新橋の新線との乗り換え駅として秋葉原を設ける。
そんな、今の東京の基盤を作る計画が出来上がったのです。
フランツ・バルツァーの計画図
(引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/フランツ・バルツァー)
存在しなかったはずの池袋駅
池袋駅は、そもそも通る必要が無かった駅です。目白駅を山手線と赤羽に向かうルート(現在の埼京線)分岐駅とし、目白からまっすぐ、大塚駅に向かう予定でした。ところが、地元住民からの反対に合います。仕方なく、目白の北側にもう一駅設け、ここを分岐駅にすることにしました。これが、今の池袋駅です。
今の東京は100年前に計画された
フランツ・バルツァーの先見性たるや恐ろしいくらいで、山手線含め、地図に描いた計画は全て実現したのみならず、東京に無くてはならない交通網になりました。さらに、東京、新宿、渋谷、池袋とターミナル駅はどれも世界トップの乗降客数の駅にまで成長。まるで50年後、100年後の未来が見えていたかのような、驚くべき計画なんです。実際、山手線が環状線にならなかったら、新宿、渋谷、池袋は、ここまで大きいターミナル駅にならなかったかも知れません。
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